ひまわり2 太陽

旧城南村概念図

城南のあゆみ

 城南地区は、主に干拓してできた土地(新田)が多く、古代の遺跡らしいものはほとんど見られないが、鎌倉時代の文永8年(1271年)に残された安永郷の記録によると、和泉には遺跡らしいものがあったという。
 室町時代には安永の11区割(6丁目)に安永城があったとされている。
 江戸時代に桑名城主となった本田忠勝平八郎による城下のまちづくり(慶長の町割り)によって、町屋川が現在の安永の南を流れるようになった。それまでは縄生(朝日町)・安永・和泉が地続きであって、その名残が現在も残っている。
 また、安永を通る東海道には、常夜灯や松並木があり、街道の両側には、茶店が立ち並んで、立場(宿と宿の休憩するところ)として賑わっていた。

 明治5年(1872年)、安永の地に南明学校(のちの城南小学校)が誕生した。
 明治22年(1889年)、江戸時代からあった東野村、赤須賀新田、小貝須村、大貝須新田、福地新田、萱町新田、福江新田、小泉新田、和泉村、安永村が合併して城南村となった。
 大正9年(1920年)には、総人口2658人で、職業別には農業が圧倒的に多く、漁業が続いていた。明治5年の時点でそれまでの庄屋制度は廃止され、戸長・副戸長制度となり、町村には「村総代」などの村役人が置かれた。

 昭和20年に空襲を受け、城南小学校が焼失し、昭和25年の人口は4303人となる。
 昭和31年9月1日に桑名市に編入合併(人口4578人)、昭和32年の城南干拓の完成、昭和34年の伊勢湾台風での甚大な被害を受けるが、昭和38年(1963年)に国道23号線(名四国道)、国道258号線(大桑国道)が開通。その後、平成14年(2002年)には湾岸桑名インターチェンジが供用開始となり、国道1号線も含めて、城南地域には道路網が縦横に走るなど大きな変化を遂げてきた。一方、東は揖斐川、南は城南海岸、西は町屋川に囲まれ、田園風景など自然豊かな土地に恵まれている。近年では住宅が増え続け、人口も8500人を超えるなどの発展が進み、地域コミュニティも拡がりをみせるなど、今日も新しい歴史を刻んでいる。